イラスト生成AIの誕生は、カメラがこの世に誕生したのと似通っており、同じ歴史を辿っている。カメラみたいなもんや。カメラカメラ。
という意見に関しては、我輩はつい最近まで、なんならさっきまで、異議を唱えている派だった。
そしてまた同じような記事を、Googleが我輩におすすめとして見せてきた(AI関連の記事は食い付きがいいと、Googleはお見通しなのだ)。
それを見たときの感情は、まーた写真と同じとか言ってやがるぜ(´・ω・`)、である。
もういい、わかったわかった。でも絶対違うぞ。
AIはチートだ。写真とは違う。
写真は己の視覚を通ししっかりと脳内にあるイメージを切り取ったものである。そのツールとしての役割りを果たすのがカメラだ。カメラ越しに見るのは己である。己が主体となって、その瞬間を写し出すのだ。
だが、AIはどうだろうか。
txt2imgなんか、脳内でイメージすることなくして単語指定のみで、イメージが生まれる。
以前、こちらの記事で、
Google検索窓に語句を入力して回答結果を得るのと同等だと言ったが、その考えは今も変わっていない。
別に技術を否定するつもりはないし、個人的にはAIも普通に使うが、そこは分かっておいた方が良い。今、AIで出力しているほとんどの人間が、芸術活動としてイラストを出力していないという事実を。つまりアートじゃない。
思考的イメージのないイメージほど、AIに頼るが故に模倣的で凡庸で、量産タイプになる。
その生成モデルが普及すればするほど(今のChilloutmixなど)、プロンプトに独自性が無ければ無いほど(そのへんのコピペなど)、全員が同じようなものを大量に生産するだけに終わるのだ。
だが、この先同じ状況は続くだろうか。
カメラと同じ、写真と同じとなれば。
その昔、カメラ(写真機)登場期、当時高価だったカメラは、恐らく金のある人間にしか手が出せなかったはずだが、写実表現のハードルがグッと下がったこと、芸術への憧れとその魅力、何より目新しい感動技術に、素人から売れない画家までが一気に飛びついたらしい。
今のイラスト生成AIも基本的にまあまあいいGPUありきでしか制限なしでは動かせないので、高額なものと言ってしまえばそうだ。そしてGPUさえ手に入れれば、つまり金さえかければ、ド素人でも、絵を描くことが出来なくても、アマチュアアーティストでも、誰でも扱えるようになった点は、カメラ登場期と全く同じである。
※ちなみに無料でGoogle Colabで動かせるが、一応限界がある。望み過ぎたら処理落ちするし、時間制限もあるし(まあ時間制限は複垢でどうとでもなるが)。モデル同士をガンガンマージしたい場合は、なかなか満足出来なかったりする。この点を考えれば、当時のカメラほど高価ではなく(しかも現像という面倒な工程もなく)、インスタント的な手軽さで一旦は手を出せるので価格的ハードルはちょっと違うかもしれんが、状況的には非常に近い。
当時、撮影するもの全てが芸術だっただろう。
今この景色を、この瞬間を、絵を描くように「考えなくとも」まるまる切り取ってイメージにしてしまえる。
扱う人間がたいして思考せずにイメージを生成できる、まさしく今のAIだ。
だがカメラは歴史を経て、プロの写真は「スゲー作品」とし高値になり、素人の写真はゴミそこらに溢れる無価値なものになった*1。
今や写真は誰にでも撮れる。コンパクトデジタルカメラがオワコンになる時代が来るなんて誰が想像しただろう。スマホは何だってできる。ボケなんかもいっちょ前に表現しちゃって。
そしてプロのカメラマンが持つカメラ、特にレンズはとんでもない価格の物だったりする。あんな重量のレンズをとっかえひっかえして、撮影しているのだKAGAYA氏は。
KAGAYA氏 とは:CGアーティストとして中学生当時知ったが、今は写真集のほうが有名かもしれない。彼の作品でプラネタリウムとかもやってたような。現在は主に北極だか南極だかに行って星空等のしゅごい写真を撮るカメラマン。
そんなプロのカメラマンの恐ろしく高額な撮影機材を、チートだ!という人は、まあいない。いたとしてもめちゃくちゃ特殊な奴だけだろう、要はいないも同然。
そして彼らがそのカメラ、レンズで撮影したものを、こんな高級機材使ってたら当然だ、ケッ!なんて言う奴もいない。いたとすれば、じゃあテメエで撮って見せてみろやと言われるのがオチ。
つまり、彼らプロには機材だけでなく腕前があると、一般的な認識が生まれたのだ。
こうして誰にでも扱えるカメラは、誰のものでもありながら、特別なものになった。
新しい技術が誕生したとき、目新しさに誰もが触れたがる。いずれその技術が普及し、誰もが手にできるようになった頃、その時プロとそれ以外の境界は生まれる。
技術を突き詰める人、とことんまで追究する人、試行する人、飽きたらずに触れ続ける人、皆が特別見向きするようなものでは無くなり、その技術が当たり前になっても尚、興味を抱き弄くり倒す人だけが他とは違う特別な稀少性を生む可能性を持つ。当然そこにはやはり芸術的センスと、あと運も必要だろうがな。
そしてその頃には高級カメラ機材と同様に、ハイエンドGPU2枚刺しとかそれ以上のことでなんかスゲー作品生み出すようになる人が出てくるんだろうな。それも独自の作風で。今でも自分の作風を学習させることは可能になってるんだから、独自の作風に関してはあっという間だろう。
とにかく、全てに共通するのが思考だ。
思考せずに適当に撮った写真と、思考を重ねて(更に才能も加わり)撮影した写真は同じではない。同じ機材でも、操る人間次第で写し撮られるイメージは異なる(何より高額機材に手を出す人は、その金の分だけその分野へ特化する事に本気だ※超富裕層を除く)。
AIは思考しない。
思考しない人間が操るAIでランダムに出力されるイメージに沸き立つ黎明期、そして同時にやって来たような過渡期は、いずれ終わる。AI業界においては黎明期、過渡期、成長期がほぼ一気にやってきてる感否めないが、とにかく確実にいずれ成熟期は来る。これだけ一気に変化が起きているので、そう遠くないと見ている。衰退期らしい衰退期だけは来ない気がするが(ながーい成熟期が続くんじゃなかろうかと、今やごく一部を除き誰もが持つ、生活必需品レベルに達したスマホと似た感じだな)。
誰がそう言ったわけでもないのに、我輩は勝手に、
カメラが登場した大昔から、写真とは技術と才能と工夫を凝らしたものであり、そうでないはずがない=AIを用いて今現在行われているGoogle検索的イメージ生成と、写真の誕生が同じなはずはない
そう思い込んでいた。
完全に勘違いだ。
そんな凄いもんじゃなかったのだ初期の写真家(カメラマン)は。ただ最新技術の写真機を使うだけで、写真家となれた時代である。技術に人が追いついていなかった。技術の独り歩きだ。
誰もが手にし誰も工夫をせず、そんな作品ですら世間の反響があった当時の写真と、今のAI生成物が違うとは言えない。
確かにAIの登場は、カメラと同じだ。
現状はチートでも、いずれ人間が機械の技術を人間的技術でコントロールする時代は来る。なんたって人間は飽きるものだ。技術にも、作風にも、見慣れた同じものには飽きてしまう。そうやってサイクルは回っている。
そんな中で、趣向を凝らした人間がいて初めて、量産から外れた本物の芸術作品が生まれる。
その時にはどんなツールが生まれてるかわからないが、今のようなグレーなものから、真っ白ホワイト全員が、ああ、あのツール使ってるならそりゃ芸術や、と認めるようなものが、きっと出てくるだろう。多分だが(あとやっぱ脳内イメージに沿うように、もっと詳細な指定を行えるようになってほしいもんだな)。
そのうち、デジタル写真のExif情報(撮影したカメラ機種、ISO感度、日時等含むアレ)のようなもののなかなか改ざん不可ver.が、AI生成イラストに含まれるようにもなったりな(Exif的なもんは既にありプロンプトも確認できるが、画像編集しただけで消えるのでなんとも言えん状況)。それによって、技術と正当性が認められるのだ。この辺はブロックチェーン技術でNFT的に早々に可能になるだろうことが現実的だが。
もちろん写真と違う問題は多くある。ディープフェイクからはもう絶対逃れられないだろうし、情報の混濁化に関しては以前にも言ったように、極まるのみだろう。
だがそれに関しても、恐らくある程度は見抜けるようになるんではないかと思ってはいる。人間は飽きる、ずっと同じ手法では騙せない。ソースに関しても、さすがに時代と共に強く意識するようになるはずだと、これに関しては信じたい、というか。そういう思考になると、それが当然となるだろうと、見抜く力は身につくはずだと、思っている。
…いや、違うな。騙されるやつは騙されるわ。そんなタイプの人らのためにアンチウィルスソフト、とかいうもんがあるんだった。
それを考えれば、アンチウイルスソフトとかにディープフェイクチェッカーと情報のファクトチェッカーが一緒くたになる未来のほうが確実かもしれん。いやこれ、そうだな。絶対そうだ。
何はともあれ、時代の流れに合わせて全てが適応する。人間のツールの扱い方も、慣れによって変化する。
色々考えたが、これらには結構確信を持っている。この考えに行きついたとき、アハ(^o^)*2として妙に思考が明瞭になった。芸術の在り方は、この先も変わらない。
プロは生き残り、アマは消えるかもしれんし、ちょっと価値があったものは価値ゼロになる可能性もある(主にクラウドソーシングで請け負う系のイラストレーターなんんかが当てはまるかもしれん)が、それはそれまでだったってだけの話だ。きっと写真のときも同じことが起きたんだろう。遅い量産より早い量産、スピードだけが異なるとすれば、新技術に人が流れるのは当然だ。だから何か、特別なものを表現のせねばならない。
そしてAIによって仕事を奪われたイラストレーターがいたとしても、業界全体の歴史で見たときに、言い方は冷たいかもしれんが、そこまで大きな変化とは言えないだろう。※アニメーターに関しては結構デカイかもしれんが*3。
それでも人間の手でイチから生み出すアートは消えない。この考えに関しては以前の記事の通り。芸術が人間の溢れる思考によって形作られるものである限り、芸術的活動を、芸術欲を人間は止めることは出来ない。
そんな中でやはりいろんな記事で何度も言うように、アナログアートの物理的稀少性にはきっと敵わないし、アナログの価値は上がる、と、アナログ至上主義な我輩は思っているわけだが。時の流れに逆らえない物理の儚さが重要なのだ。諸行無常を感ずるのである。
だが我輩にアナログ手法を極めるだけのハッスルはない。
なので法整備を待ちつつ、いつか来たる日のため、AIをしっかり弄っておくことにしよう。
(っつっても明確なイメージで作ろうとしたら確実に半分は思い通りにいかんので、DAZと組み合わせたほうが良さそうだが…)
*1:と言ってしまえば無情過ぎるか。単に手軽な思い出記録用途が強くなっただけでもある。感情的には思い出はプライスレスだが、冷静に考えたとき、他人からすればだいたいが無価値だ。それで良いのが写真であるし、それでも全員が思い出を形に残せるようになったのは、本当の意味での技術の発展ではあるな。我輩も特に公開用途でもなく、写真はしょっちゅう撮っている。イラスト生成AIがいずれ行き着く一般向けの普及としては、ペイントソフトや加工ソフト的立ち位置のクリエイティブ用途以上に個人的には思いつかないので、その点はカメラと違うかもしれんな。
*2:アハ体験。カメラもド素人が芸術荒らすツールみたいな扱いされてた時代があったんよな!確かに同じや、アハ!
*3:アニメーターのAI化は手作業が工場生産になったのと同じ変革であると思う。やはりクリエイティブな業界では個を特化させる方に重点を置いたほうがいい。それが無理なら割り切るしかないのだ。企業に雇われてる以上、結局会社員なのでコマでしかないわけだからな。人間の代用が機械(AI)で可能なら、それが行われるのは必然である。