⚠注意⚠前回に引き続き、難しすぎて取りとめのない内容になっている。前回今回共に脳みそを整理したいと思い書いているだけなので悪しからず。あと最低なことを多分言う。
止まず終わらず更に激化する状況である。この時代に、戦争体験者となり、心身傷つき、子どもたちの未来、多くの命の未来が奪われている。
先ほど、避難した地(おそらく国外)で、召集令状を受け取ったウクライナ国民男性の話を見かけた(出勤前だったんでちゃんとは読んでない)。彼には家族がおり、家族と共に逃げてきたらしい。
戦後、戦争体験者の話からは、召集令には逆らえず逃げる事が許されず、向かうしかなかったと、聞いた。逃げ出す者を非国民と呼ぶ。今はどうなのだろう。
彼らは逃げるという選択肢を、持たせてもらえているのだろうか。それとも強制的に戦地へ赴くしかないのだろうか。この召集令状にはどれだけの拘束力があるのだろうか。
普通に考えたら令と言ってるだけにそれは国からの命令で、今も昔も同じ意味を持っていそうではあるが…。
読んだ。
やはり、召集令とは命令で、強制的なものであった。
向かう向かわないの、個人の意思に関しては、正しい間違いなど無い。思想の話だ。
だが、召集令状によって己の思いに反して命を賭けなくてはならない場合。それは、歴史的に見て正しいとは言えないと思うのだ。
また、戦後生き残ったとして、正常であれるのはほんの一握りだろう。
我輩の祖父も、少し変になったと聞いた。まあ我輩には優しかったけどな(うろ覚えだが、ニコニコしていたイメージはある。あと我輩は根っからの人見知りで抱っこされてるだけなのに怖くて泣いていた。今思えばめちゃくちゃ申し訳ない)。まだ幼い孫から見る祖父像と、旦那像、父像、義父像ってのはそれぞれ別のはず。話によれば外から帰ってきたら全食器割るといった感じで、暴れるようになったとか。
これは恐らくまだ軽いほうで、このように、個々人の精神をおかしくし、壊し狂わすものが戦争である。※余談だが、せっかくなので祖父の話をもう少しさせてくれ。祖父は戦場を共にした将軍からの手紙を大事にしていたらしい。それといつも金のネックレスをしていたのを覚えている。あれは仏の形だったんだっけ。
異様なのはもちろんロシア、というかプーチンで、マジでプーチン一人が◯ねば終わるのに、どれだけ多くが助かるだろうかと浅はかなことを思ってしまうほどである。
だが、プーチンは◯なない。
こんな状況を長引かせるのはマズい。一ヶ月で十分に長い。長過ぎる。なのに5月まで続くだろうとかいう声もある。簡単に5月までだろうとか言いやがって!!
そして何より、意思が尊重されないのはもっとマズい。
確かに国の未来を守るために戦っているのかもしれないが、悪い歴史を繰り返そうとしているようにも見える。
今回の結果が世界の小国の命運も分けるのだろうし、ぜレンスキー政権が崩壊しないことを個人的には願っている。
それとは矛盾するのかもしれないが、どうかウクライナ国民の戦後の苦痛がこれ以上広がらぬようにとも思う。それもまた一つの未来であるからな…。
〜退社後〜
さて、もう少し冷静に考えてみよう。
悪と戦い犠牲となる正義はいつでも美談として描かれる。
逃げれば卑怯者だと。
これはどんな映画・ドラマ・漫画においても、時代問わずそうだ。
舞台が現代、過去、未来、架空であれなんであれ。そういう価値観がほとんどの世界で共通だと思う。進んで身を投げ出すその強さは美しい精神として、憧れの対象である。我輩もなんだかんだそう感じる人間だった。
だが、それは一体誰の観点なのかを考えなくてはならない。
誰の為の犠牲か、だ。
例えば物語のヒーローが、他者のための犠牲(利他)に対する、人々の憧れが投影されたものであるとすれば、それは他人のためというより、己の理想のための犠牲とも言えるかもしれない。
ちなみに、ヒーローかそれ以外かは、結果伴ってこその評価だったりもする。
負ければ命を無駄にした愚かな行為と言われ、勝てば未来のために己の犠牲すら厭わなかった英雄扱いだ(まあこれは結構極端で思想にもよるだろうが)。どちらも同じ痛みなのにだ。おかしいじゃないか。
我輩ならどうなりたいだろうか…。
寒さと空腹が襲い、腕がもげるかも、脚が利かなくなるかも、目が見えなくなるかも、はたまた全四肢かも。死よりも恐ろしいのは痛みと不自由さだ。そんなとてつもない痛みが襲い、傷口にはウジが沸くかもしれない。
いや、凄く逃げたい。
スマンが、逃げたい。逃げられないのなら行くしかないが、本音を言えばめちゃくちゃ逃げたい。隣国には食べ物も温かい場所も無く、眠ることができるのなら、逃げたい。卑怯者でいいから逃げたい。
というか冒頭に戻り、避難先に召集令状届いたウクライナ人の話だが、避難してんだからもう離れさせてくれ!と勝手ながら思う。しかも彼は奥さんと子どもいるんだぞ。酷すぎるだろ。つか何度もいうが、避難してるんだぞ?
まあ、恐らく召集令状が来た時点では、考える間もなく、選択肢も無い。未来も分からず、といった状況で、仮に逃げたくとも、同調せざるを得ないのかもしれない。
こんなに技術は進化し、情報を得やすくなったと言うのに、今も昔も変わらないのか。
迫られる選択はどちらを捨てるか、のように感じる(己の未来か国の未来か)。
自分さえ良ければなんて思ってるわけでもない、と言いたいところだが、こうなったら思ってるのかもしれんわ。思ってて何が悪いねん、という気もしてきた。
…と、ここまで言いはしたが、やはりわからん。
そもそも行きたくて行く人なんてほぼほぼいないだろう。誰が行きたくて行くんだと。
避難、逃げるという選択肢を即捨て、留まった者でも、もちろん同じだ。
故郷を見捨てたくないと、己の身と引き換えに背負う覚悟を決めているのだろう。故郷愛がそんなにあるわけでもない我輩ですら、理解できる(よく考えたら、己の生まれた地をこれまで離れようとは欠片も思えなかったので、無意識だがやっぱある方なのかもしれん)。
退避を最終的に決めた者も、戦地に行く(留まる)ことを決めた者も、同じ葛藤を抱えているはずだ。状況はまるで違うが、震災時に被災地に留まるか、離れた地へ行き帰らぬことを選択するかの、それに近いものを感じる。
見えない未来は可能性でもある。
異なるように見えるどちらの行動も、可能性に賭けるため、それぞれの描く未来を掴むための行動だ。今生きる一人一人に焦点を当てたとき、国という大規模な存在に焦点を当てたとき、それらの未来が同じとは限らない。どの未来を取るかだ。
このあたりは感情論にもなってくるだろう。まず、理念、思想は、理性だけで判断できるものではない。だからこそ辛い。
救いなのはやはりそれでもネット社会ではあるので、どんな選択をしても全世界が非難する事は無い、ということだ。自国、そして取り巻く周囲だけが全てだったような、世界が狭かった昔とは少なからず違う。
何より、震えながらでも行かざるを得なかった、そんな先人達と同じ道を辿ってはほしくない。
昔より、自由意志を貫ける環境でなくてはならない。
もちろん、逃げるべきだの留まるべきだのと当事者以外が言うのは、全くもって筋違いである。
何で当人たちでも無ければその歴史の下にいたわけでも無いのに、そんなこと言う権利があると思えるのか、って話だ。降伏しろ・継続しろも同様に、なんでお前らそれを言えるの?と思う。なんでそんな簡単に言えるんだ。自分は影響の無い(少ない)場所にいて、あまりに無責任過ぎる。
加えてやはり、今でも、ウクライナの未来が世界の未来でこれが岐路だとは思っているし、ウクライナが潰れたら終わりでウクライナがウクライナとして在ることが希望という考えは変わらない。他人事じゃないのだ。
それと矛盾したような、都合のいいことかもしれんが、それでも我輩は、
国が民主主義の名の下に戦うのなら、国民に選択の自由もあるべきで、その道を閉ざさぬようにしてほしいと、一般市民においては特に離脱の権利が少しでも必要だと。
それこそが、先人たちと同じ轍を踏まぬ唯一の方法だと。
届かぬ場所で言っているだけだ。
※この考え自体がお節介ありがた迷惑、我輩のエゴである可能性は否めないがな。
更に後日の思考整理↓