ボロボロ皇帝のボロ切れと塊

ボロボロ皇帝が悪態、嫌み、好み、何でも己の視点だけで自由に吐く「偏」な場所。たまにExcel、家電、音楽等についても好きに吐いてる。

ボロボロ皇帝が悪態、嫌み、好み、何でも己の視点だけで自由に吐く「偏」な場所。
Excel、家電、音楽、ゲームイラスト小説映画、性癖について等、何でも好きに吐いてる。

どうでも良いかもしれんが背景色変わっていくの見てくれ。
更にどうでも良いかもしれんがアイコンが息してるの見てくれ。


我輩は何にも制約されない身、
「耐えぬ」事を恐れないと決めたのだ!
我輩は好きなときに悪態をつく!
妬み僻み嫉みを背負い、
マイナーだろうが邪道だろうが
我輩は我輩の道を行く!
好きなものは懸命で不器用な諸君,
嫌いなものは器用で完璧を気取った奴らだ。
         

【つまらん】文章のAI生成だけはどんなに高精度でもやらんな、という話〜己にとっての価値と欲と娯楽(そして自己愛へ回帰)〜

 

AIにより描かれた絵に価値があるかどうかを判断するのはそのAIを操る作者と観客だ

AIにより紡がれた文章も然り

だが、どうしてだか、文章、すなわち言葉に関しては拒絶したくなる受け入れ難くなる

それは他者が作ったAI製文章に対してではなく己がAIで文を生成するだろうか、と考えた場合においての拒否反応だ。身勝手かもしれんが、読む分には別にいい(正確さが重視される時事的なものや、エッセイ等含めノンフィク前提文章のそれっぽい生成は、事実と異なるデタラメとして普通にアカンが)

そうではなく、生み出す側として想像したときの、妙な嫌悪感

 

なんかめっちゃ嫌やな(´・ω・`)

 

である。

 

 

…と、これは本日、三百編ほどの自作品をAIに学習させた作家が、AIにより生成した作品でとある賞を受賞した、という記事を読んだときの率直な感想だ。

上記で散々言ってるので分かるだろうが、当然受賞者に対しての感想ではない(三百編も書いてる事がまずスゲーので、そこからAI使っても凄い事には変わりない)。

何度も言うが、己がAIで文章を生成したら…と、もしもを考えた時の感想(感情)である。

このような感覚を自分自身が持つことに、我輩は本日初めて気がついた。ちなみにAI生成絵が受賞した話に関しては嫌悪感はない。驚異は感じるが。

 

というわけで、AIを使用して文を生み出すことの、何がこんなにも嫌なのか、じっくりと脳みその奥底を探って整理することにする。

 

まず、我輩にとって、文(文章)に対する感覚と、絵に対する感覚は、大きく異なっているようである。

 

とは、詳細思考の視覚化だ。情報量はうるさい程に多くすることも可能。また、言葉選びが思想を反映したりすることもあるし、感情も、情景も、全てを詰め込む事が出来る。相手に伝わる伝わらないはさておきだが。

対して、は、多くを語らない。想像に委ねることもできる表現だ。当然そこに思想諸々、文と同じように込めることはできる。だがそれは一部で、自分すらも気づかない深層部分のイメージも重なるため、文よりは曖昧に揺れ動くものである。

 

つまり文は思考で、絵は感覚なのだ(何度も言うが我輩にとって)。


そして言葉の群である文章は、騒がしいほどの自分自身の露出だ。

そんな自分自身を剥き出しにするための文章作成を、なぜ他者(AI)代わりに生み出してもらう必要があるのか

 

己の文体をいくら学習させたとて、AIがもっともらしく生成したその文は、この我輩の思考の奥底なんか無視しているんだろう

脳に電極埋め込むか、文体だけでなく詳細な心理分析まで行わん限り、無理なはずだ。そしてそういうことができる世の中なら、正確な犯罪予知、犯人分析とかまで行えるはずなので、今の世ではあり得ない(し、よく考えりゃ自分の文体を変なクセはあれど特別個性的とは思わんので、わざわざ寄せられても複雑である)

そもそも、我輩でも自分で自分がわからんことがあるのに文体学んだだけのお前に我輩の思考読み解けるわけ無いやろ、おい

 

我輩らしい文章、だが我輩の思考と違う上っ面だけのそんなブツを吐き出されましてもね

 

それでは意味がない。我輩にとって、全く価値のないことなのだ。

 

いくらAIに文章力があろうとな。それは、一言でいうととても「楽しくない」

 

思考を言葉に嵌め込みながら文章へと形にすることは、やや己の鳩尾らへんを抉る感覚に近いときがある。そして最後に恍惚とする(こともあるししないこともあるが)。

とにかく大体においてスッキリとするのだ。当然オ○ニーである。思考をまるごと見えるものにしたい、その欲求なのである。

第一に自分が満足すること。そしてネット上に上げている以上、この思い届け♡だ。それもすべて楽しくなきゃやっていない

 

今この文章を書き出しているのも、自己満が大前提である。自分を知りたいのだ。言葉にして、少しでも明確にしたい。良い悪いなんにせよ。全部でなくても出来る限り。

 

苦悩と同時の快楽的感覚を抱かずして自分のようで自分じゃない文章を生み出し、それでいいと思えるほど、我輩は割り切ってはいない、ということだろう。

 

整理が追いつかないスピード感で湧き上がる思考を勢いに任せて書き出すことも、「あれなんて言うんだっけ(^o^)?」と出てこない単語を捻り出しすことも、文字一つ、入れるか省くかを考えることすらも、生み出す過程のその全部が楽しいのだ(思うに絵に関しては効率を考えるも、文章に関しては考えたことがない、というのも、そういったことからくるだろう)。

娯楽であり癒やしであり、やめられない行為なのである。奪われたら生きていけん。歌うことと同じだ。歌いたいから歌う。言葉にしたいからする。

 

思うに、文章を書くほとんどの者がそうなのではないか、と思っているがどうだろうか。

他者からの承認を求める、それより何より、まず自分の欲を満たさなくては出来の良さすらも時にはどうでもいい

 

 

ここまで書いていて気づいたが、この感覚は、ゲームでチートツールを使って何が楽しいのか本気でわからん、といったあの理解不能と非常に似ている(個人的にゲーム=娯楽。与えられた条件でプレイするのが勝つも負けるも楽しいというか、自動制御、バカ硬く削られないHP然り、楽しむにあたって必要性を感じない)。

 

 

なるほど我輩は、AIによる文章の生成に対して、

つまらん、楽しさを奪われる、と、

そしてそれらがどんなに己の要素を学んだとしても、己の内ではなく外側から生成されたものである以上、自分ではないものとして切り離したいと、そう感じているようだ。

これらがごちゃまぜになって、異様な嫌悪を生んでいるのは大体分かった。

 

つまるところ我輩は…

 

めちゃくちゃナルシストなのだろう。

 

 

 

まあこれ、娯楽の域を出ていないだけとも言えるけどな。吐くほど文章を生み出した人ならもうええやん(´・ω・`)となってAIに頼りたくもなるのかもしれん。

ひとまず、今のところの我輩は、自分で自分の思考をシコシコ文章にするのが大好きってだけの話だ。

 

 

 

ちなみに、クラウドソーシングのこれこれこれの単語を使って文章を何百字で作成してくらさい(^o^)とかいう依頼に応募するときにはAI生成はめちゃくちゃいいな、と思った。自分にとってどうでもいいもの、だが報酬を得たい場合、というか(※個人の意見です)。

つか、そこそこ精度の高い文章生成AIが誕生した今なお、この依頼、生きているんだろうか。

※完全アフィ特化ブログにも使えそうである。これは考えたほうがいいな。

 

 

この先、この世には意味があるようでまるで意味がない、そんな文章もきっと溢れるんだろう。そんな懸念もある(ような気がしなくもない)。だがそこに意味を見出すのも読み手次第だし、なんなら人間が生み出す文章も詐欺なり虚偽なり、色々あるわけで。読んだときの価値は受ける側が決めることなので、言い方は悪いがどうでもいい。

自分の文章に関しては自分が意図した通りに受け止めてほしいこともあるが、まあそれに関しても、やはり読み手の体験は読み手だけのものであり、それぞれ異なるので、押し付けることはない。

我輩はどちらにせよ、ただただ楽しんでいけたらそれでいいわけだ(誰の目にも触れないメモ帳アプリで大量にtxtファイル生成しているのも楽しいからである。キモイなぁ)

元はすべてが娯楽、すなわち、自分だけの大いなる価値あるものなのだから(他人にとって無価値でもな)。