ボロボロ皇帝のボロ切れと塊

ボロボロ皇帝が悪態、嫌み、好み、何でも己の視点だけで自由に吐く「偏」な場所。たまにExcel、家電、音楽等についても好きに吐いてる。

ボロボロ皇帝が悪態、嫌み、好み、何でも己の視点だけで自由に吐く「偏」な場所。
Excel、家電、音楽、ゲームイラスト小説映画、性癖について等、何でも好きに吐いてる。

どうでも良いかもしれんが背景色変わっていくの見てくれ。
更にどうでも良いかもしれんがアイコンが息してるの見てくれ。


我輩は何にも制約されない身、
「耐えぬ」事を恐れないと決めたのだ!
我輩は好きなときに悪態をつく!
妬み僻み嫉みを背負い、
マイナーだろうが邪道だろうが
我輩は我輩の道を行く!
好きなものは懸命で不器用な諸君,
嫌いなものは器用で完璧を気取った奴らだ。
         

【自虐】己の中に眠るナルシシズムを認めよう【自己愛】

 

 

よく自分を好きになれないだとか、自分が嫌いだとか言う人がいるが。

 

本当にそうなのか?

 

 

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ようこそ諸君、ボロボロ皇帝だ。

 

我輩は自己愛を認めているタイプの人間である。

大体において、己のことを話したがる人間は皆、自分が好きだ。

わかりやすくブロガーで例えれば、雑記ブロガーだとか日常の出来事を書いているブロガーも含めて、どんなに自分を性格が悪いとかキモいとかクソとかド変態クズとか卑下していようが、なんだかんだ全員ナルシストである。

好きじゃないはずがない。

 

好きじゃないのに、見える形で己の存在をつらつらと書き残そうとするか?

本当に痛いなら、えぐるように文字に書き出そうとするか?

 

また文字に限らずだ。

口にする行為も同じである。

わざわざ己の五感の一部である目耳で感知できるように吐き出すのは嫌悪の表れとは程遠い。

ならばえぐるように感じているその痛みは本当の痛みではなく、一種の快感だ。

 

 

そこから目を逸らすというのは逆に情けない

皆、気持ち悪さも恥も全部含めて自己愛を認めようじゃないか

というのが今回の主題である。

 

 

我輩は自分の嫌な面を知っている。

その本当に嫌な面を知ったきっかけ、それは当然ながら過去の体験に基づいているが、思い出したくもないので書くこと口にすることなどの行為、つまり、己から吐き出すことが拒まれる

その過去を忘れたいからだ。忘れてしまいたい、無かったことにしてしまいたい、だから記さない。耐え難いのである。

 

だがそれ以外のほとんどの嫌な面は、吐き出すことができる

それは事実上の嫌悪ではないと言えるだろう。

まあさすがに現実社会では簡単に晒すことはできないが(歩く生き恥になるので)、

それでもひと目に晒すように、自虐として書くことができる。

それは形は歪(う○こみたいな)であれど確かに自己愛であるはずだ。

 

 

例えば、

自分の嫌な部分、恥ずべき部分向き合うという行為だ。

それができるのは自分を認めたいからだ。

そのことを含めて直視し、自分を認めようと、ある意味では正当化しようとしているのだろう。それは社会的だとか世間的だとかではなく【己の中で】、である。

自分の中へと飲み込むために、消化するために、一部として認識するために。

己を理解するために。

嫌いなものを理解しようとするだろうか?

しないだろう。

他者とのすれ違いや嫌悪、差別云々が生まれるのは、理解できない、理解しない、理解を拒む事が要因だ。

理解しようとする行為は愛の現れだ。

 

また、

自分の嫌な部分を吐き出す行為自体には、

自分の嫌な部分を、好きになれない部分を、自分以外の誰かに承認してもらいたいという感情の現れでもあるだろう。

それはもちろん自己愛だ。

嫌いならば切り離してしまえばいい。

完全に自分を拒絶し切り離すことを選ばず、自分のみならず自分以外の誰かが見聞きできる状態で吐き出す行為。

それを自己愛と呼ばずして何と呼ぼうか。

 ※ちなみにネット上では拒絶か承認かの二択だと我輩は思っている。良い反応はもちろんだが、無反応ですら承認と感じることができるほど、他者との境界がとても曖昧である。まあつまり我々はほとんどを承認することができ、されることができる。非常に便利だな。悪い反応はもちろん拒絶だ。まあ考えようによっては逆も然りだが。

 

自分が嫌だと、自己嫌悪を形として吐き出すとき、

前者(自己理解)より後者(他者承認)のタイプが多そうであるが、我輩は両方併せ持っている自覚がある。どうだ、ハイレベルだろう。

とくに前者の意味でいろんなことを吐き出す事が多い。

恐らく前者のほうが自己愛度が高いのではなかろうか?自己理解に努めるという行為、相当の自分ダイスキスキーじゃないと無理だろう。そう考えると我輩は重度なナルシストでオ○ニー中毒ということだな。まあ心理学には通じてないしここまでもここから先も全部己の見解なので正しいことは知らんが。

 

 

とまあ、総じて我輩は自分が好きだ

それを知っている。非常に気持ち悪いことも知っている。

だが大体の人間がそうであり、皆それを口にしない、もしくは、そのことはカッコ悪いと目を背けているだけだということも知っているので、実際のところ平均値だろうなとも思っている(まあどっちでもいいが)。

 

 

悲しいことに人間とは自分を完全には嫌いになれない生き物だ(自己嫌悪という感情は人間だけのものだとは思うので「人間とは」、という言葉はそぐわなそうだが)

自己と他者は全くもって別ものである。つまり、客観視、客観的とよく言うが、それは擬似的なもので、結局主観は主観でしかないのだ。

自分の過去も体験も感情も、結局のところ誰にも分かりようがない

逆に言えばその全てを自分だけが分かる、分からずとも分かろうとすることができる

あの日の、自己嫌悪となる記憶も感情も己の性質も、自分の愛せる部分も、苦しみもそうだ。

 

全部ひっくるめると何だかんだ奇妙で、なんて都合がいいのだろうかと自己嫌悪に拍車がかかることもあるのだが、奇妙で都合の良い己ごと受け入れたいからこうしているはずだ。ならさっさと受け入れた方が良い。どうせいずれそうなる。

 

 

もちろん「僕は自己愛の塊である、ナルシスト万歳」と言おうなどとは思っていないし、言うことを推奨しているわけでもない

隠したっていい(というかまあ隠すのが当然だろう、恥ずかしく気持ち悪いのだから)。

だが自分の中だけは自己愛を持つ己をそのままに、受け入れてしまえば、それは当然のことと感じれば、何かがすっとするのだ

何がすっとしているかはよくわからんが、面倒なことが一つ消えたような感覚と言うべきだろうか。

 

だからほら、ひっそりと、誰にも知られないように、認めてしまえばいい。

それは当然のことである。皆かっこつけてるだけで自分ダイスキなのだ。

 

とくに、自虐しながら自分を理解しようと気持ち悪い自分を突き詰めることおすすめである(たまに間違った答えを導き出すがそれもまたよい)。

ハマると良いか悪いか不明だが癖になるぞ。

 

 

なんか…一周まわって自己啓発みたいになってたりしないよな?そう思うと反吐が出そうであるので思わないことにしよう。

それに、これは完全に我輩の持論であり、つまり明るくも暗くもない、良いも悪いもない、プラスもマイナスも無い、ただ現実を受け入れるだけの行為なので、きっと人生は何も変わらない(今までよりちょっと気持ちよくなれる程度)。

 

 

 

…とかなんとか言っておきながら気づいてしまったが、みんながみんな自己愛を認めたら、何だかつまらなくなってしまうな。我輩は、自己嫌悪を抱いていたり、心の内で自分なんかと過小評価してしまっている人間の事がとても気になるという性癖持っている(己がナルシストであるための反動かもしれない)

なのでここまでの自虐と自己愛の関係性に否定的な諸君は、ぜひそのままでいてくれ。

そんな君も好きである(大変興奮する)